勝手に生きろ!/チャールズ・ブコウスキー

 ブックレビューと銘打っておきながら、秋田南部の農村に受け継がれてきた呪われた一族の話をしようと思う。

勝手に生きろ! (河出文庫)

勝手に生きろ! (河出文庫)

 第二次世界大戦中から戦後のアメリカを駆け巡るヘンリー・チナスキーが、職を転々としながら酒と女に溺れ、作家を目指しながらも悩む日々を描く。
 作者自身の二十代をモデルとした酔いどれ青春ストーリー。

 とは書いたが、これは酷い。
 自分語りになるが…といっても、ここ十数年、日本でちゃくちゃくと翻訳され続けてるブコウスキー作品であるが、そのほとんどがたぶん作者の自分語りなので、ここでレビューはわしの自分の話でもいいと思う。そんなわけで語らせてもらうが、サカモト家というのは、秋田と山形の国境のあたりに脈々と受け継がれてきたアル中の一族であり、一族の中で理想とされる死に方は「正月に朝酒して、朝風呂を浴びて、あまりのすがすがしさに死ぬこと」という言い伝えがあるような家系だ。そのせいか、父方の親戚の多くは酒豪ばかり。
 わしは母方の血が強いのか、あんまり酒に強いほうではないのであまり付き合わないのだが正月なんかに叔父や大叔父なんかが来ると誰かがぶっ倒れるまで飲み続ける大騒ぎとなる。
 祖父も父も父の兄も全員アル中で、昼間は穏やかだけどプルプル震え、夜は酒が入れば絡み、拒む奴には暴力も辞さない構えを取る。これがサカモト流晩酌法。

 ブコウスキーに話は戻るが、この「勝手に生きろ!」はそんなサカモト家の正月のたびに「そういえば昔〜」といって語られる酒による武勇伝の数々と丸かぶりといってもいいくらい既視感を与えられた。
 そもそも、チナスキーとうちの爺さんがほとんど同世代なうえ、作家を目指していたということ以外はまったくそっくりである。爺さんは徴兵を免れていた。疎開先の長野でちょっと頭のねじがぶっ飛んだ女(ジャンと違って、同い年であったが)とねんごろになり、非常時だというのにかすとりのような酒を飲んですごしていた。
 大きく違う点は爺さんは仕事は転々とはしたが、チナスキーほど酷くは無かった。最後は千葉の会社に腰を落ち着けたし。
 しかし、この職を点々とするチナスキーのエピソードをなぞれなかった爺さんのかわりになったのが叔父である。これはまた酷いアル中で、サラリーマンであったのにカルト宗教にはまり「布教の旅に出る!」と会社を辞め、日本中を放浪していた。最終的に自殺未遂を起こした挙句、上野でホームレスをしてたところを爺さんにドツかれて、目を覚まし*1、カルトもさすがに悪いと思ったのか叔父のために仕事を斡旋してくれたりして、どうにかこうにかやっている。たぶん、飲酒運転でタクシー会社を転々として許されてるドライバーってうちの叔父くらいだと思う。都内のサラリーマンは気をつけろ!*2
 こんな2人を見て育ったせいか(親父は叔父とだいぶ歳が離れている)親父はまともに働いた。大学もちゃんと行った。しかし、爺さんと叔父に対して、親父はなまじっか一族の中でもインテリだという自意識があるのか酒に造詣が深い振りをする(叔父は貧しいので酔えれば何でも、爺さんにいたってはメチルでもかまわない)、本当はどれがいいワインか、とかウィスキーのいい銘柄だとかそんなことまったく分からないくせに知ったことを言う。酒飲みにも理論武装をすることでアイデンティティを確立しようとするところがあって、わしが最も嫌うところである*3
 まぁ、こんなアル中を見て大人になった、わしの「クソったれ!少年時代」は本当にアル中が嫌いだった。というか飲み方を知らないやつが嫌いだった。しかし、高校も2年くらいになってくると家族ネタはわしの話術におけるキラー話題(ナニソレ)になっていたし、家族ネタを話せば友人数名が受けてくれてたので、調子に乗って毎日、爺婆や親父を要チェックしていた。そうすると、不思議なことに「またか!」って憎憎しく思っていたものが突然、ふっと「あらあら、またやっちゃったの」というような親が子をいさめるような、といっても子が親を見ているという構図からすると気持ち悪いが、そんな気持ちになってしまい。このアル中が可愛らしく感じるようになっていた。
 「勝手に生きろ!」は基本としてヘンリー・チナスキーが「飲んだくれる→酒代が尽きて仕事を探す→仕事をクビになる→旅に出る→飲んだくれる」という同じパターンの日常が繰り返される。場所や仕事は違えど、ルーチンワークのような同じ展開、お約束の解雇。自分の責任や仕事に関してイイカゲンなだめ人間ってのは見てて腹が立つし、このチナスキーという人物に対しても小説の中の人物と知りながらも説教のひとつでも垂れたくなるような気持ちにさせられていたが、或ときを境に彼を許せるようになってしまう。それどころか、このだめ人間に惹かれていってしまう。まるでわしが親父や爺さんを許したかのように。
 物語は終始、同じパターンを繰り返す。延々と続く日常、変化の無い世界、進化しないだめ人間。そんな合わせ鏡の中のような気持ちになっているときにふと、当初は作家を目指し燃えていたチナスキーが内部では(ダメ人間と言う外部が変わらないのがミソ)しだいにヨレヨレになっていき、20代という血気盛んな時期の終わりを感じさせる老いを見せ始める。そんな切なさに涙を禁じえず。こんなろくでなしなのに、どこか彼を愛してしまっている自分が彼を下に見ていたのではなくて、彼という人物の中に自己をフラッシュバックのように家族の話のデジャヴという形で投影している自分に気づかされる。それはそれで切なく、悲しい話である。

*1:でも、カルトは現在進行形

*2:チナスキーがタクシー会社に就職するエピソードではボロボロ泣いた

*3:飲みの席で酒について色々と語るのは親父以外でもニヤニヤしてしまう。もやしもんを見て「へぇ」というにとどめておくべし、どこの日本酒がどうだ。とか、芋焼酎についてうるさいとか、生暖かく見守ってしまう。