哂う

 看守がやってきて、俺に面会があると言ったとき、心底嬉しい気持ちだった。

 社会のクズとして生きてきた俺には恋人も友人もいない。肉親はというと、アクラにお袋がいるが、病身で臥せっているから、こんな親不孝者の息子をしかるためにわざわざパリまで来てくれるわけはない。

 俺はといえば、死刑も決まって、ギロチン台に登るのを悶々と待っている日々であったから、そういった思いのたけを誰かにぶちまけたい気持ちで一杯だった。

昔は、とくにフランスにやってきてからは他人と会話することなんてぜんぜん好きではなかったが、むしろ今はそれを望んでいる自分にどこかしらこっけいなものを感じて、にやにやとした笑いが止まらなかった。

「それで、誰なんだい?こんな俺に面会したいってのは。もしかして、オマールか?」

 オマールはセネガル人で、同じアパルトマンに住んでいて、同じアフリカのよしみということでよく酒を奢ってやったもんだった。

「あいつムスリムのくせにうわばみでな。何杯もいけるんであいつが潰れるより先にこっちが音をあげちまったよ」

 返事も聞かず、ひとりで勝手に盛り上がっている俺を看守は寂しげな目で見ていた。

「残念ながら、違う。なにやら大学の先生だそうだ」

「何だって? 人違いじゃないのか」

 大学なんかには行った事がない俺に、そんなインテリな知り合いはいなかった。

「いや、間違いない。会うだけ会ってみたらどうだ?」

 俺も正直参っていたので、見ず知らずの人間だろうがかまわなかった。むしろ、そこに犬が座っていようが俺はいくらでも語ることが出来ただろう。


「ピエール・ドュレです」

面会室の窓越しに太った中年男が手短に挨拶をした。どこかの大学で教鞭を取っているらしいが、どこの大学かはぴんと来なかった。

「俺なんかに何の用なんだい?」

ムッシュー・サイイ、あなたに私の研究のお手伝いをお願いしたいのです」

 むすっとしている俺に対して、やはり率直に話し始める男。どこかしらねっとりとしたしつこさを感じさせる口調が鼻についた。
「手伝い? 何をまた。俺はこの牢屋から出られねぇ。それに、一週間後にはギロチンが俺の首をスッパリ切り落とそうと待ってるんだぜ。そんなときに悠長にお手伝いなんて…」

「いえ、お手数はおかけしません。いたって簡単なことです」

わめく俺をさえぎるように男は落ち着けというジェスチャーをした。

「サイイさん、これは簡単な実験なのです」

「実験?」

「鶏の首を切り落としても、適切な止血処理を行い、点滴などで栄養を与え続ければ一年以上も生きながらえることが出来るということはご存知でしょうか?」

「さぁね」

「そんな発表が数年前学会でありましてね。そこで私も人間で実験を行おうと思うのですよ」

 俺は首から上が無くなっても生きている人間の姿を想像してみた。それは音楽も聴けないし、飯も食えない、たいそう不便だろう。

「悪いが、俺もそこまでして生きようとは思わないんだ」

「いえ、そういうわけじゃありません。あなたの死刑は覆らないのですから、私の実験のために生きながらえさせるわけにはいきません。ただ、あなたにはギロチンの刃が落ちてから、あなたの意識が完全に死の世界に旅立つまでの間、私に合図を送り続けていてほしいのです」

 白人の、そのなかでもとりわけ青白い顔がにやにやと語りかけてくる。当の本人はその顔が愛嬌のある表情だと思っているのかもしれないが。

「合図って?」

「何でもいいんです。たとえば口をぱくぱくと動かすとか、目をぱちぱちと瞬きするとか。何であれ、まだ自分が生きているぞ、という動作をしてほしいのです」

「何だって、俺がわざわざそんなことをしないといけないんだ」

「あなたは故郷のガーナに病気のお母さんがいるそうじゃないですか。どうです? この実験を手伝っていただけたら、私どもであなたのお母さんをフランスでも最高の病院へと入院させるお手伝いをしましょう。アフリカには無い最新鋭の技術ならきっと、お母さんを助けることもできましょう。最期の最期で親孝行をしませんか?」

 男の言葉は俺を頷かせるのに十分すぎた。結局、俺はピエールの悪魔じみた実験の提案を飲んでしまったのだった。


 自分の房に帰ってから、俺はベッドに横になりながら、窓の鉄格子の隙間から見える外の景色を見ていた。高めにつくられた窓のおかげで外の景色といっても見えるのは空だけで、その空も今に日が暮れようとしているようだった。故郷のアクラの、アフリカの空はもっと高かったかと思い出そうとしたが思い出せなかった。

 俺はおそらく、ここにきて初めて死を意識したような気がする。ガーナでの貧しい生活よりも、父が死んだときよりも、初めて人を殺したときも、ここまで死というものを意識したことは無かった。

 フランスに移住したとき、きっとここでならガーナとは違う豊かな生活が待っていると思っていた。最初は工事現場などで作業員をしながら、故郷に仕送りをしていた。しかし、年々増加する移民と高慢な雇い主たちの間で、俺が職を失うのはあっという間であった。母が倒れたという知らせが届いたのはちょうどその頃だった。

 最初は置き引きからであった。あっけなく、金が手に入ってしまった。これなら解雇されることを恐れながら働くことも無い。置き引きからひったくりに、ひったくりから強盗に、俺の犯罪はとんとん拍子でエスカレートしていった。そして、ついにはナイフをつきつけた観光客に抵抗され、もみ合いになり、気がついたらナイフは観光客の腹に刺さっていた。まだ助けを呼べば、命は助かったのかもしれない。だけど、俺は捕まるのが怖かった。なにより、こうやって捕まってしまえば、母に仕送りはできなくなる。

 俺は逃げた。まだうめいている男を残して、逃げ出した。その結果がこれだ。

 ピエールの顔を思い出す。あの白人はちゃんと約束を果たしてくれるのだろうか。面会室で俺を見る奴の目は人間を見るというよりも実験動物を見る目だったのかもしれない。

 笑い声が聞こえた。

「うるせえよ。黒ん坊」

 隣の房から聞こえる文句で、その笑い声の主が俺だと分かった。俺は笑っているのだ。自分の愚かしさを。このひとりの哀れな死刑囚を嘲笑っているのだ。

笑おう、と思った。ギロチンの刃が俺の首を跳ね飛ばしたとき。俺は大声を上げて笑ってやる。そして、生に執着し踊らされる、おろかな男の黒い首が上げる笑い声に、多くの人間が笑い返してくれれば、俺の人生に思うことはないと思った。

外を見れば、窓の格子の向こうに黒い闇が広がっていた。