シャドウ/道尾秀介 2回目

シャドウ (ミステリ・フロンティア)

シャドウ (ミステリ・フロンティア)

 一回、紹介したけど読書会で色々と考えが変わったので、これを読んだ未読の人がシャドウを楽しめなくなってしまってもかまわない気持ちで感想を書きたい。なお、この更新は読書会で配ったレジュメに補足訂正をいれたものである。

内容(「MARC」データベースより)
母が亡くなり、父の洋一郎と2人だけの暮らしが始まった数日後、幼馴染の亜紀の母親が自殺した。そして亜紀が交通事故に遭い、洋一郎までもが…。父とのささやかな幸せを願う少年が、苦悩の果てに辿り着いた驚愕の事実とは…?

 緻密に練られた伏線が目に付き、一回目の感想ではそちらを話したが、これは間違いであった。
 なんというか、この物語、精神病を扱ったり、ゆがんだ家庭を描いたりと読者によっては不快感を感じざるをえないテーマである。
 読者はこの伏線の数々を拾ってゆくことでミステリとしてこの物語の全貌を知る。しかし、一方でこの伏線の中には物語の結末に至るためには対して重要じゃないものが数々登場する。

 この物語の中で幾度と繰り返されるどんでん返しと、2つの本当の家族像に読者がたどり着くための要素。物語を通して読者が追い求める謎というのは大きく取り上げれば3つ。

  1. 恵が自殺する直前の空白
    • 田地に相談した後から、自殺するまでの間の行動が分からない
  2. 亜紀は何を恐れているのか?
    • 亜紀に悪戯をしたのは誰か?
  3. 洋一郎の不審な行動
    • 凰介が洋一郎に抱く不安とは何か?
    • 何故、恵の遺書が洋一郎のパソコンの中にあったのか?

真相

 そして、物語を通して読者がたどり着く結果は次の4つ。

  1. 洋一郎の職業と病歴
  2. 恵の自殺と亜紀の行動
  3. 田地の人物像
  4. 洋一郎の目的

 この4つに対して、作者は物語の頭から、大胆にも伏線を引きまくってくる。冒頭、咲枝の拾骨の場面では、洋一郎が仕事を休むことに対して「患者さんの診察は田地先生が代わりにやってくれる」の説明で凰介は顔を曇らせる。洋一郎は医者じゃないのだから、凰介が父の病気の再発に気づいてしまったシーンと再読では気づくが、考えてみると大胆すぎるだろう。また、この直後、父の気を紛らわせようと凰介が田地について「顔を上と下を間違えたみたいだよね」という冗談を言い、洋一郎は突然涙が止まらなくなる。洋一郎は『その抑制力は、別の感情がちょっと引き金を引いてやるだけでいっぺんに解けてしまうほど弱いものだったのだ。』と書いているが、この別の感情というものが再読して初めて田地への憎悪であることだと気づかされるのだ。
 他、これら4つの真相に対する伏線としては

  1. 運動会で競争社会について説く
    • 洋一郎の前職が営業職であったことの暗示
  2. 4章、診察室を箒で掃除する洋一郎
    • 清掃員じゃなきゃ机の下の埃を箒を使ってまで掃除しない。
  3. 運動会の後の亜紀。右手の痛み
    • 8時から11時の間について書かれていない。また、下半身の違和感から右手の痛みへの変化。
  4. 凰介の田地をネタにした冗談が滑る
    • 洋一郎も亜紀も田地を憎悪していること。
  5. 空調機は使える
    • 洋一郎の殺人計画

 一部を上げただけでも、再読して初めて文脈と関係の無い不可解な伏線の理由を知らされる。

レッドヘリング

 しかし、この伏線以上にぷんぷんする伏線もこの物語には大量に張られている。物語の真相とは関係の無いこの偽の伏線(レッドヘリング)が読者に物語の結末を予想させない。

レッドヘリングの例

  • タイトルの『シャドウ』
    • シャドウという単語が重要なファクターとして取り扱われることは無い
  • 凰介の白昼夢
    • 両親のセックスを見た記憶とか正直どうでもよかった。
  • Capgras syndrome
    • 小道具や雰囲気作りではあるが物語に関係しない
  • 竹内の飲んだグラスを捨てる咲枝
    • 2人の関係や咲枝の心理についてはあまり触れられない
  • イカの思い出

 この物語のレッドヘリングたちは「何かありそう」という雰囲気作りにおいてはバツグンの効果を発揮しており、歪みを抱えた家庭の色濃く落とした影を彩ってくれている。

人は死んだらどこへ行くのか

 物語の発端は我茂家の母、咲枝の死である。しかし、この物語は咲枝の物語ではない。あくまでも咲枝が死んでしまった後の物語である。登場人物たちは咲枝のことをふと思い出しこそすれ、彼女が亡霊化して彼女の記憶にとらわれるということは無い。
 ジャンル問わず、この手の登場人物の死を描く作品にありがちなこととして、死亡した登場人物に対してトラウマを抱えてしまったりすることである。ノルウェイの森の「僕」は直子の死によって彼女を引きずるし、とっぴではあるが、ガンダムのシャアはララァの死をずっと引きずっていた。
 しかし、人間の死に対するリアリティとして、これらにちょっと疑問を持つことがある。身近な人間に死なれたことが無いというか、モテたことのないわしだけど死んだ人間はどこにいくの?という言葉に対して「どこにもいなくなる。いなくなって、ただそれだけ」はひとつの真理であるのかもしれない。
 咲枝の描かれ方はまさにそれであるし、恵にいたっては自殺したってのに亜紀はまったく自殺する直前の母親のこと以外、まったく思い出したりしない。我茂家や水城家はそういう意味で非常にリアリティがあるのかもしれない書かれ方をしていることに注目させられる。
 レッドへリングの項で取り上げた、色々なものはただ単純に記憶の中に蓄積された思い出という点で共通する。「公園で拾った千円でスイカを買って食べておなかを壊した」「物心つくかつかないかのときにベビーベッドの中から両親がセックスしているのを目撃した」「元カノが遊びに来て、帰ったあと、嫁が元カノのつかった食器を捨てていた」これらは全て、思い出だ。これから起こる出来事に対する予兆でもなんでもないし、その思い出がこれから起こることに影響を及ぼしたりはしない。
 でも、人生ってそういうものではないか。確かに、昔右に曲がっていやな目にあった道は左に曲がるとか、思い出がこれからのことに影響を与えることは往々にしてよくあることだけど、必ずしもそれが起こるということではない。
 先に書いた登場人物の死にとらわれる主人公像はあえて言うのであれば、それは死者への傾倒である。しかし、人間が死者へ傾倒することは、生者に傾倒するよりも稀だと思う。実際に徹は、周囲の環境の変化も大きいが恵の生前のほうが彼女の浮気の疑惑に悩まされていた。
 この、シャドウに見られる咲枝と遺された人々の関係というのは、人間とその関係性におけるヒューマニズムの象徴なのではないか。

人間って何?

 シャドウという物語を伏線という遠心分離機にかけるとその先にはヒューマニズムの物語が眠っている。底にミステリが沈んだとき、浮かび上がってくるのは人間というものだ。
 オチが気持ち悪いという人もいたが、わしはこのオチはありである。このオチには未来性がある。このあとも咲枝の死んだ後、洋一郎と凰介の父子は生きていく。小説の中の登場人物は小説の中にのみ生きる存在であるが、人間というのは事件のあとも続く。たとえば、ここでこの原稿を書いた直後にわしが急死しても、他の人の人生は続くんだよ。酒鬼薔薇聖斗はこれからも罪を償って生きていくんだよ。
 この物語の終わり方はまさにそういった、咲枝の死から田地の死までの事件を経ても、これからも生きていく我茂父子と水城父子の前に未来がまだ続くのを感じさせられる。この終わり方の気持ち悪い点は殺人という陰惨な事件を経ても、何の変哲も無く続く未来というところだろう。
 しかし、たとえばテレビをつければ、この間までだったらミャンマーで警察に射殺される日本人ジャーナリストの映像が流れまくってたわけで、それを観ながら飯を食う家庭ってのも少なからずあったわけだよ。うちとか。
 この小説のキモはそういった過去や事件に対する過大な評価をしないこと、でも、故人は遺された人々の心の中に生きる、記憶や経験として蓄積されていく1データとしてだけど。ということじゃないか。
 夜鷹は星になった。けど、空を見上げれば星がいっぱいあってどれが夜鷹だか分からねぇ。でも、夜鷹確実にこの星のどれかひとつなんだ。