地域性と差別とミステリ

 飲みながら、イギリスをはじめとするヨーロッパミステリーの肝は地域色の強さだという、アン・クリーヴスの大鴉でも書いたことを話した。yuminagaの『大鴉の啼く冬』は本格ミステリになるのではないか、という発言にわしが「いや、大鴉は本格ではないだろう。むしろ社会派じゃないか」ということを言ったのをまだ引きずっているのだ。
 海外のミステリに対して、日本のミステリはよそ者意識ってものが薄い。『八つ墓村』に始まる横溝正史の書く岡山県殊能将之の『美濃牛』、麻耶雄嵩の『鴉』などが地域色というか、閉鎖的な田舎の村落とそのアウトサイダーな書き手という形式が登場する作品であるが、これらの特徴はみな作られた村という印象が強いファンタジーな世界だ。
 一方で、イギリスのミステリ。特にミッチェルの『ウォンドルズ・パーヴァの謎』やギルラスの『蛇は嗤う』を読んでいて出てくるのは狭いコミュニティの中での事件において、生じる内部のものと外部のものの温度差である。
 これに関して思うのはやっぱ、ヨーロッパの都市というのは境界線がはっきりしているせいかもしれない。オアシスvsブラー、サッカーのダービーなんかを見て、やっぱヨーロッパ人てのは自らの地域やナショナリズムを背負っているもんだと考えさせられる。
 境界線というのがこの上なくぼやーっとしている日本。しかも、次第に情報化社会になったりと都市と都市の距離が完全にくっついているこの国では、この温度差や地域性はあまり感じられない。たとえば、大阪を舞台にした小説を書くとして、その中で東京から引っ越してくるなりした人間とコテッコテの関西人の間にある温度差を描いた小説というのはまだ見たことが無い。わしが読んでないだけでどこかにはあるのかもしれないけど。
 という、ここまでが焼き鳥を食べながら話したこと。
 しかし、帰りの電車の中でふと前に友人と同じように飲んだときの、友人の親戚の話を思い出した。友人の親戚のその人は北海道で教師をしてたので、今でもかつての教え子から同窓会の便りがよく来るのだと言う。仲の良いそのクラスは同窓会をちょくちょくやるのだが、なぜか毎年同窓会の便りが二回送られてくる。なぜかというと、仲が良いクラスではあっても、片方が大和人の同窓会。もう片方がアイヌ人だけの同窓会なのだという。つまり、教壇の上から学生を見ている分には仲が良いクラスだったけど、実際に卒業してから同窓会をするようになって、こういった民族間における温度差が表面化したということなのだろうか。
 これについて調べていたら、沖縄でも大和人差別と言うのがあるらしい。やはり、あくまで本土から来た人間はよそ者とみなされるのか。
 また、先に書いた横溝、殊能、麻耶の小説を髣髴とされる2ちゃんねる発のフォークロアに『ことりばこ』の話がある。結構ショッキングな話なので、ここでは伏せておく。興味がある人は「ググれっ!!」
 このことりばこの話に妙なリアリティを持たす一因が部落差別であろう。被差別民が差別者たちに対する対抗手段として呪いを行うという状況は読者を納得させる力がある。
 ここまで書いて、わかることはこのヨーロッパのミステリに時たま現れる妙な温度差はこの差別意識というのに根付くのではないかと気づかされる。
 それを思えば、アメリカのミステリ、ホラーにおいても散見するのはアフロアメリカンやコロンビア人などのヒスパニックのコミュニティやレッドネック白人などにおいて、この内部のものと外部のものの温度差というのが生じる。
 こういう温度差の生む問題に事件を通して触れていくから、わしの中で最近のヴィレッジ性のあるミステリ*1に対して、社会派としての臭いを感じてしまう。それが、ふたりの「大鴉」に対する認識の差の原因ではないかと気づいた。

*1:ああいうジャンルを何て呼べばいいのかね。わしは勝手にヴィレッジ・ミステリって呼んでるけど、ヴィレッジ・ブックスみたいだ