MADが日本の文化だとしたら日本人の生産性は遅れていると思わざるを得ない

ニコ動「MAD」削除 ひろゆき氏「問題ない」、小林社長「現時点での妥協点」 - ITmedia NEWS
 レポートの季節になって、作業用の音楽を求めてニコニコ動画を開いて絶句。最近のニコニコ動画のランキングはあまりにもつまらない。上位を占めるのがほとんどオナニー目的で作られたようなMADなんだもの。
 ニコニコ動画におけるMADの削除について最近少し話題になった。二次創作くらい自由にさせてやれよとは思うけれど、そこでMAD=日本の優れた文化とまで言い切ってしまうのはどうかと思うし、もう一度MADというものについて考え直すべきではないかと思う。
 MAD動画というのはアニメやゲームの映像や画像、音声を素材としてコラージュアートのように組み替えることで新しい意味を与えるものであるように認識している。
 しかし、コラージュアートというのは切り貼りする素材が原型を遺してしまうと意味が素材にとらわれてしまい、ただのパロディと成る。んで、現状としてニコニコのMADが何でつまらないかというと切り貼りする素材にとらわれていて、二次創作の範囲を出ないからであるように思う。二次創作はその元ネタとなったものを知らない人間にはまったくの意味の無いものなのだから。
 じゃあ、コラージュとしてのMADの良いものって何なの?といえば、例えば遊戯王の主人公が磯野波平とカードバトルをし、波平がモンスターとしてマスオを召喚するという動画である(ひゃああああうまいいいいいい)。あえてリンクは貼らないでおくのは、この動画における素材(遊戯王、波平、マスオ)のもつ意味と動画の説明との間にギャップがありすぎてもう意味が分からなくなってしまっているということに意義があるからである*1
 んで、わしのMADの定義に乗った動画っていうのはおそらく著作権側からすれば損にもならないし、得にもならない。完全に市場とは無関係のものである。
 2ch、VIP、にじうらと日本のネットでは「才能の無駄遣い」という賛辞が使われてきた。本来だったらその能力を生かして商業的に成功を収めることも可能であろう人材がその能力がしょうも無いが面白いことに使うということが美徳とされてきた。ようするに商業主義を否定し、非生産性の中に生きるということがここまでのネット側のスタンスだったわけだ。
 だから、ドワンゴの社長小林宏氏の発言を聞いて、「こんな非生産的なものを日本の優れた文化と言うことはとても恥ずかしいことなんだよ」と思ってしまったのだ。

*1:これと似たものとしてクリムゾンのエロ同人誌というものがある。こちらはどんな漫画をネタにエロ同人誌を書いてもまったく同じストーリーで素材の意味がまったく失われていることに価値があるとわしは思う。