ケータイ小説は批評家を欲している

 まず、ケータイ小説の現状としてあるのはケータイ小説を支持している人の多くは女子高生を初めとした「そこまで本という形で文章に触れたことのない」層であり、逆に石原慎太郎を始めとした文学者たちからは非難の対象として捉えられているということ。
 その原因としてまずケータイ小説の稚拙といわれる文章やとびとびで繋がりの無い構成なんかがある。ここらへんに若者の語彙力の低下を憂いたりする識者の意見が来たりする。
 しかし、ここで思うのは石原慎太郎を初めとする文学者がそもそもケータイ小説を語る批評家たりえるのかというところから突っ込んでみたい。つまり、紙媒体である小説の評価基準でケータイ小説を評価することは誤りであるということだ。
 まず携帯電話で読む小説と本で読む小説ではその手段から大きく違う。ケータイ小説は携帯電話の3×4〜5平方センチのディスプレイと視界を限定する。そして、自分の気に入ったところに付箋を貼ったりして読み返す自由も与えられない。たかがそれだけと言われればそれだけのことかもしれないが、そんな些細なことだけでケータイ小説を読むという行為は全く別の様相を呈してくる。そういった中で物語を淀みなく読者に伝えようとしたらそれには文字数や改行のリズムなど紙媒体にはない色々な制約が生まれるから、紙媒体の小説と同じ比べ方をすると違和感を感じるのは当然の話だ。
 ケータイ小説を批判する者はその細かい文章表現を気にするが、支持する人はそういった細かい箇所を気にする読み方はしない。あくまで携帯電話というツールを使ってケータイ小説を読むことはストーリーを頭に写すということに主眼がおかれており、そのストーリーに対して刹那的な主観としての感動が得られる。例えるならケータイが映写機で頭がスクリーン。ストーリーというのは光に過ぎず古い映画館で空中の塵がチカチカしているのに近い。*1
 そういった感動を得ることを自己目的化したツールを評価するのに、多くの批判論者はそのツールが導き出す効用については触れない。ツールに過ぎない文字の羅列を追う読者は必ず挫折する。わしも恋空は挫折した。
 そもそも感動を得るために感動する物語。泣き芸をするときに精一杯、悲しい話を想像して涙を無理やり流すのにその涙流すための話を共有するような現象についてどうなのよ。って思うのだけどここには触れずに置いておく。
 とにかく、テレビのお涙頂戴モノの番組で精一杯不幸なVTRが流れていて、スタジオにカメラを戻すと島田紳助柴田理恵がボロボロと泣いているそういったもらい泣きをできる能力をもった人がケータイ小説の真の読者たりえるわけだ。つまりケータイ小説を論じる場合はVTRの出来の良し悪しでは無く、その刹那的な感情の起伏を論じなければならないのではないか。
 で、タイトルの話になるのだけど、結局今ケータイ小説を取り巻く論壇ではケータイ小説に批判的な意見が多い。このままではケータイ小説はたぶん一時的な流行に過ぎず、スターツのようなスポンサーが降りたら、既存のWeb文学の一部となるだろう。その前にケータイ小説をひとつのジャンルとして成立させるためには先に述べたケータイ小説の与える感動について批評できる批評家が現れる必要があるのではないか。
 ケータイ小説について研究する女子高生たちの中からそういった人材が登場することが望まれているんじゃないか。

といったことを言おうとして、それって尻からラーメンを食べてその味について語れって言っているようなものじゃないかと考えて、「いや、それは無理だよ」と思ったので、やめた。

*1:このことをid:Thorn氏と話していて、シャドウランにはBTLなる麻薬があるらしく、それがまんま、ここで語っていることに近いなあ、と納得させられたのでした