人として軸がbugっている―笙野頼子と燃える家

 子供が家の前の通りで遊んでいる。キックボードにのってぐるぐると通りを商店街のほうから我が家のはす向かいの駐車場までの100mを行ったり来たりしている。
 年老いた愛犬は夕方も近い時間になると、リードを加えて飼い主に散歩をせがむのだが、外に出ると歩くわけでもなく、ただ座って家の前を行ったり来たりする人を眺めては尻尾を振っている。
 祖父はそんな愛犬とのひと時をすごすために折りたたみ椅子と灰皿を軒先においている。俺もそのことを知っていたので犬のリードを玄関扉の取っ手にくくりつけ、家の中に本を一冊取りに戻り、普段は祖父の特等席となっている場所をすこし借りての優雅な読書を楽しむことにした。
 俺が少年の姿を見止めたのは暫くして、鶴見線の沿線の景色が三重県四日市になってきた頃だった。犬が吠えたので目を上げると、そこは雨の降る千葉の冴えないようなベッドタウンの一部であって、猫の額のような土地に無理やり並べた、レゴで作ったような家が並んでいるのだった。
「どうしたんだい?」
と大げさな身振りで愛犬に問いかける。どうも俺はこの愛犬といると妙に調子に乗ってしまうようだ。先週も家に帰るなり「ただいまでちゅよぉ」とでちゅもへったくれもあったもんじゃない毛並みに白いものが混じり始めた、人間にすればナイスミドルであろう犬を抱き抱えたところをちょうどトイレを借りていた妹の友達と目が合ってしまったばかりだ。その夜、妹から「面白いお兄ちゃんだね、って言ってたよ」という言葉を貰った。自分では気持ち悪がられるかと思っていたが、現役女子高生から面白いと言われたのだから、これが今のお笑いの最先端のセンスなんだろう。そんなの関係ねぇ!
 ということを思い出したのが数秒。いかんいかんと犬が吠えた先を見ると、からんからんと小気味いい音を立てて、キックボードが坂を下っていくのが見えた。
 我が家の前の通りは左にカーブを描きながら下る坂道となっていて、キックボードで滑り降りたらさぞかし気分爽快だろうと思うが、深夜、バイクに乗った高校生がスリップしてカーブの外側にあるゴミ置き場に愛車もろとも飛び込んでいったのを何度か見ているため、キックボードの少年に対して不安にかられた。ところで、バイクの高校生は必ずといっていいほどゴミ捨て場に飛び込むのでカラス避けのネットやゴミ袋がクッションとなり、みんな幸いなことに必ず立ち上がり、よろよろとバイクを押して坂を下りてゆく。あのゴミ捨て場のポジションはこの坂道の事故を想定した絶妙なものなのだろう。だから、きっとあの子供も坂道で転んでもきっとそのままゴミ捨て場へと飛び込んでゆくんだろう。だから安心して本を読もうか。
 少年が滑り降りていった先には商店街がある。商店街といっても、店らしい店はみんな駅前のほうへ行ってしまったので、自転車屋と床屋、クリーニング屋といった生活に密着した店が数件残っているのみだ。商店街というものはトキの次に絶滅する違いない。
 駅からも遠い。町工場が数件並び、もっと行けば畑の数もちらほら見えてくるはずが、ここ数年で急激に家が増えた。畑は潰され、町工場は小さくなる。畑のど真ん中に道路を作って六つに区画が分けられたそこだけ見れば南ヨーロッパのような建売住宅が並ぶ。南ヨーロッパはネギのにおいはしないけど。
 かつて、運送会社の社宅だった隣も昨年、建売住宅になった。まだ売れない家が何件かあるらしく、のぼりをもった人たちが空き家の前に立っているが、見学会の甲斐なくいまだに人が住む気配は無い。
 犬がまた吠える。
「うるさいぞ。いい加減にしろ」
と叱咤して、それが犬の吠える声じゃなくて、自分の頭の中でウィンウィンとうなりをあげて回っている何かだと思い知る。
 大学から帰る途中、高田馬場駅に向かう途中で見たサイレンだ。目の前にとまっている車。パトカーか、救急車か。
 はす向かいの家の二階から火の手が上がっていた。消防車だ。そうそう、高田馬場の火事もなんとなく通り過ぎて、家に帰ってニュースを見て驚いたのだ。
 はす向かいの家は二階から、外から見てもありありとわかるように燃え上がっており、煙が充満していた。消防隊員が消火しようと放水している。誰だったかな。成人式のあとの飲み会で酔っ払った俺が膝の上で吐いたのは。彼も消防隊員になったはず。勤務前は十二時間は飲んじゃいけないとかで一人だけウーロン茶を飲んでいたというのに、申し訳ないことをしたなあ。もし、彼がいたら謝りたかった。消防士たちを見回したが見知った顔は無かった。なんだよ、つまらない。
 俺がタクシーに押し込められて家に帰った後、彼はズボンの汚れを拭いてくれた女の子と付き合いはじめたと風の噂に聞いた。謝ってる場合じゃなかった、むしろ彼から俺が感謝されてしかるべきだ。愛の矢ならぬ、愛の吐しゃ物でカップルを量産するキューピッドなんだぜ、俺は。
「まあ、大変!おうちの人は逃げたのかしら」
 おばちゃんたちが集まってきた。
「ウミダさんのお宅よ!」
「ウミダさんたちは大丈夫かしら」
「私、あそこの奥さんしか見たことがないんだけど」
「たしか、お母さんと娘さんとお孫さんの三人で暮らしてらしたはずよ」
「娘さん、見たことあるわ。無愛想なの」
「娘さん、駅前のお店で働いてらしたけど、子供がいたの知らなかったわ」
「怖いわあ。私の家まで燃え移らないかしら」
「スズキさんの家に燃え移る頃には間にある私の家はなくなってるわ」
「ちょっと、奥さん。不謹慎だわよ」
「でも、お母様は感じがいい人だったのに、娘は遊び歩いてるようだったわね」
「子供を母親に預けて。お子さんがかわいそう」
 嗚呼、可哀想にウミダさん。
「それにしても大丈夫かしら。最近、乾燥してるし」
 乾燥?馬鹿なことを言うな。今日はさっきまで雨が降っていたくらいじゃないか。
「この冬は火事が多いわねぇ。2丁目のアキカワさんのところも小火おこしたらしいわ」
「聞いたわ。テンプラ油なんだって」
「あらやだ。うち、今夜テンプラにしようと思っていたのに」
「テンプラねぇ。怖いわねぇ。テンプラ」
 テンプラというのは新手のモンスターだろう。新しいロールプレイングゲームじゃ初心者の壁となる、テンプラ。そんなことより、冬じゃないだろう。確か、俺はさっきまで野球を見てたはず。まだ残暑も終わろうかという秋だろう。
「お子さんって、男の子?」
「そう」
「なら見たことあるわ。よくおうちの前で遊んでるよね」
 俺は立ち上がった。はす向かいは駐車場だった。祝日の駐車場には消防車どころか、何も止まってない。キックボードの子供もいなくなっていた。
「おい、そろそろ満足したか?」
 我が家の前の景色を満喫したのか犬は素直に腰を上げた。俺は椅子をたたんだ。
 あの後、犯人は捕まった。一家惨殺の後、ストーブの事故を装って火をつけるという残忍な手口はセンセーショナルでニュースにもなった。
 あの駐車場もきっと家になる。他の畑や駐車場が家になるのと同じように。住む人間のいない建売住宅が並ぶ。隙間なく並ぶ家々のどこかで子供が遊んでいる。
 そこで、俺は本を閉じた。